惰眠と寝不足

惰眠と寝不足を繰り返す苦学生の備忘録です

キャンセル!

小山田圭吾某一件について、その暴露自体は記事になった当時は生まれてすらいないが、僕にとっては常識に近く、Twitterでも小規模(いわゆる「界隈」のうち)ながら話題にあがったことは何度かあったと思う。だから、今回ここまで問題になるとは思ってもなかったので、今の現状に少し驚いている。それは僕自身が小山田圭吾がえぐいいじめをしたこととそれを後に雑誌に無反省に語ったことの罪の程度を軽く見ているとかではなく、どちらかというと僕がキャンセルカルチャーを相対化した態度をとっているからだ。

 

セクハラとか過去の差別発言とかで映画作家や音楽家、俳優などは、「キャンセル」されることがある。詳しくは調べて欲しいけど、映画監督のウディアレンやジェームズガンもその対象となって、映画公開が見送られたり監督作の続編から降板させられたり(後に復帰)している。こういうのをキャンセル・カルチャーという。#Metoo運動も、キャンセルカルチャーを含むものだった。今回小山田圭吾の辞退を求めることも「キャンセル」することに他ならない。これは当然良いこともあれば過剰なこともある、と思っている。

 

この件で、小山田圭吾を問題視する人について、三つくらいには分けられると思う。

小山田圭吾が凄惨ないじめをしていてそれを雑誌に自慢げに話していたこと

小山田圭吾が五輪の仕事を引き受けていたこと

③①のような人間が②だったこと(いじめをしたりそれについて無反省な人が平和の祭典だとされるオリパラの仕事をするということ)

 

①でコーネリアスのファンだったという人には個人的には「え?知らなかったの??」という思いになるが、客観的に見てこれを問題視することは当然で、凄惨ないじめははっきり犯罪であるしそのことを無反省に語ったことは更なる加害といえよう。

ただ、

youtu.be

 ↑こういう状況は前提とされるべきだとも思う。掲載された雑誌や記者、発言の意図、「悪趣味」ブームの風潮とかを抜きにして語ることは、小山田圭吾だけの問題へと矮小化させることにもなろう。

だからと言って、そのいじめ行為は実際にあったわけで、それはいずれかの時点で断罪されるべきだったのだ。とも言える。

 

②これで失望した人も多いだろう。もちろん児玉裕一小林賢太郎のファンもおんなじ思いかもしれない。僕らは彼らのワークに期待しながらも、間違いだらけの「祭典」を見ることになる(見ないという選択肢も当然ある)。僕も軽く残念だった。

オリパラの開会式閉会式のプロジェクトには椎名林檎やケラさんもいたがみんなやめてしまった。その一件はよく知られたところだが、その後もプロジェクトは続くわけで。小山田圭吾らがどの時点でプロジェクトメンバーになったかは知らないが、残されたメンバーは「辞めるべきか?」という思いも抱えつつその仕事を進めていたかもしれず、そして少なくとも抜けた穴は多少なりとも埋めなきゃならない。そこで色んな人に声をかけただろう。断られもするだろうが結局は誰かが引き受ける仕事だ。それを小山田圭吾が引き受けたことには、ある種の同情もあるし、ああやっちまうのかというのもあるし、どうせ開催されてしまう五輪の開会式のクオリティがまだなんとかなりそうなよくわからない安堵も感じている。

 余談だが、椎名林檎とミキコと児玉裕一は多分セットでプロジェクトに入っていて、二人が辞めたことで児玉が残ってしまった形になったと思う。そうなると「なぜ児玉はやめなかったんだ!」と憤ったり悲しくなるファンもいると思うが、おそらくそう単純な話ではない。あらゆる理由でやめられないとかやめないでいたいと思う状況はそうできる。作家は、五輪がもつ政治性よりも作家としての創作を優先させるかもしれないという可能性も含めて(その選択自体が極めて政治的であるということはある)。

 

小山田圭吾は今回に限ってはもう辞退してしまった方がいいような気もするが、基本的には依頼した側が悪い。それくらいわかっておくべきだろ。

 

 

とまあこれら三つの論点は、全て分けながら語られるべきだと思うのだがどうだろう。ここら辺が未分のままツイッターで語られているのを見るとうんざりする。。

そして、小山田圭吾はこの一件で五輪開会式やその他のことからキャンセルされるのだろうか?という疑問がある。個人的には「キャンセルされるべき」とはおもわないものの今回に限ってはキャンセルされてもそれを間違いだとは言えない。という感じで、キャンセルされるか否かは、今後見守っていきたいが、この問題がキャンセルカルチャーというものと不可分の状況にあることは皆さんにも理解していてほしい。