コミュニケーションブレイクダンス
人と話すことがこんなにも疲れることだったなんて!!
と、最近思う。
人と話すことというのは話すだけに留まらない。人と話す時ぼくたちは、相手の目線を伺い相手の言葉の隙を感じとりながら目を見たり見なかったりして声を発する。コミュニケーションとはこのこと。
そしてこの動作、思っていた以上に疲れてしまうということに最近気づく。今更?
しかし、これはコロナによって生まれた自粛期間の望んでもない恩恵なのかもしれない。
さて、何に疲れてしまうのだろう?疲れないコミュニケーションもあるのだろうか?などと考える。
疲れるのは、やはり気を使うからで、相手の言葉を読もうとするからだ。相手の言葉に表面以上の意味を見出したりするが、それが正しいわけではない。裏読みは単なる考え過ぎの時もある(というかその方が多いだろう)上、まったくもってくだらなく、且つ相手にも失礼な行為なようにも思える。でも、無意識にも考えてしまうのだから残念なもんだ。
それに、疲れないコミュニケーションは、ある。無いわけがない。一つは気心が知れていること。相手との仲が長いとあんまり気にせず会話ができる。僕もそうだ。関係性が出来上がっているので滅多なことを言わない限りそれが崩れることはないという安心感があり、言葉を慎重に選ぶこともない。
二つ目には相手の言葉を気にしないことがある。(※これは気心の知れた相手の話ではない。)しかし、自分の言いたいことを言うだけだったり、相手の言葉に反応するだけなら、そこまで深く考えて会話しなくてもいいい。もしくは今後もある程度ちゃんとした関係が続くような人たちでなければ、フワッとした会話でいい。
僕の場合、疲れないコミュニケーションができるのは気心が知れている時と薄い関係である時。といっても失礼な物言いにならないように気をつけたりしなくちゃならないという意識も軽くある(無い時もある)。僕にとっては基本的にコミュニケーションは疲れるものだ。
だからといって僕はコミュニケーションがしたくないとか、できるだけ人と話したくないとか言ってるわけじゃない。疲れるほどの価値はある(時もある)と信じてはいる。僕が考えていることの7割くらいは抽象的な人間関係のことなので、1人でうんうん考えるのも、コミュニケーションがなければできない。誰かと話すことで、自分の意思が明確になったりぼんやりとしたり、無意識に自覚することができる。そういうわけで貴重で価値がある。
僕は基本、人と話している時に疲れると思うことはない。話した後、帰りの電車の中とかでどっとその疲れが来る。話している時にストレスを感じる時があるなら相当なもんである。話したことで疲れ、それを振り返り、自分が嫌になってまた疲れる。
例えばこれが続くと、3日から一週間ほどドーンと淀んだ気分の日々が訪れる。そういう時の小沢健二『LIFE』は精神安定剤と化す。
精神的な負担だが、それを負うほどの価値があるか?なんていうことまで考えるつもりはない。
それは、心のどこかで「人間、コミュニケーションしてなんぼのもんじゃい!」みたいに思っているからかも知れない。